『曝く男と抗う女』
著:鴻上リルカ
そんなカラクリがあったと気付いたのは、つい昨日のことであった。
目の前で暗い顔をしている、俺のカウンセリングを担当している女。目元が酷く暗い色をしていたので、クマでも浮かんでいるのかと思っていた。
しかし、それは間違っていた。女の目元を彩っていたのは彼女の長い睫毛が作り出した影であった。
俺の目の前で軽く俯きながら、彼女は抱えているカルテに熱心に何かしらを書き込んでいる。ボールペンが紙の上を滑る独特な音が俺の耳の中に無遠慮に入り込み、鼓膜を震わせていた。
視線の先で、女の長い睫毛が上下する。マスカラは……どうだろう。付けているのだろうか。この距離からでは、よく分からない。
病院というこの場に相応しい、清潔感のみを主張する薄いメイク。この場で医師をしているのだから、それは正しい。
だが、毎朝鏡に映る『凡庸』や『無難』というカテゴリーに無理矢理嵌め込んだ自分の姿を見て、この女の胸にはどんな感情が湧き上がっているのだろうか。
多分、何も感じることなどないのだろう。それはこの女が特別鈍感だからではなく、人間とはいとも簡単に環境に染まる、そんな生き物なのだ。
俺から言うなれば、死んだように生きているこの女。
ボールペンを愚直に走らせて、きっと酷い見当外れの診断を書き綴っているのだろう。こんなもの、病院という舞台で、医師役と患者役が笑えない喜劇を繰り広げているに過ぎない。
いつしか俺も、このふざけた茶番を構成する一員になっていたことに、こっそり舌打ちをする。屈辱だ。
早くこんな場所とおさらばしなくては。あぁ、気分が悪い。取り込まれるなんざ、まっぴら御免だ。
俺は軽蔑を込めて、この病院と完全に同化した、目の前のある意味『結果』を改めて眺める。
――唐突に、からかってみようと思った。
くれぐれも言っておくが、この冷たく無機質な静寂を傷付けようとした動機はたったそれだけ。無駄に抗おうという気や焦りもない。
俺は退屈していた。それだけの話なのだ。
「……お前は俺を、どう判断した?」
俺の声に、女はピクリと身体を震わせて反応した。視線は絡み合ったが、それは一瞬で終わる。彼女がまたカルテに視線を落としたからだ。
「なぁ、教えろよ。俺の病名、お前はどう決めつけたんだ?」
女はまた顔を上げる。形の良い唇から発せられるのは、俺を窘める言葉。地味で無難な色をした唇がパクパクと動くのを見つめながら、俺は耳に届く心地の良い音を聞き流す。艶を抑えたそれを見て、どこか不思議な気分にすらなってきた。
自分の個性や欲望をひたすらに消し、歪にさえ見える不自然な姿を人前に晒してまで、この女は一体何になろうとしているのだろうか。何者にもなれる訳がない。『自分』から逃れることなど不可能なのだから。
そう考えれば、この女はおこがましいのか。それとも馬鹿な甘ちゃんなのか……。
「なぁ、シュガー」
俺の呼びかけに、彼女の眉間にぐっと皺が寄る。
「変な呼び方をしないで」
凜とした声でピシャリと突きつけられた拒絶。
変な呼び方……。いいや、少しも変ではない。本当の自分を必死でひた隠しにしているこの女と比べたら、この『シュガー』という呼び名は、つけた俺自身が感動するほどぴったりだ。
頭の固い女だ。俺は呆れながらこの名がどんなに彼女にお似合いか説明してやる。そうだ、俺は本当に退屈で暇だったのだ。
「いいや、お前は『シュガー』だよ。何故ならお前のそのくすんだ色の口紅の下には、さぞかし艶やかで程良い弾力のある愛おしい唇が隠れているだろう?どう考えてもそれは蕩ける位甘い味がする。そうに決まっているんだ。例えばその味。それ一つ上げたところで、お前の呼び名が『シュガー』であることには充分に説明がつく。はぁ……甘い物食いたくなってきたな。どうせそんな物要求しても出てきやしないんだろう? この身体が拘束さえされていなかったら、俺の舌で邪魔な口紅を舐め取って、お前の蜜にも似た味の唇をたっぷり堪能す……」
おかしい……。目の前の女が顔全体を真っ赤にして小刻みに震えている。体調が悪いのだろうか。しかし、さっきまでは顔色は悪かったものの声色や呼吸から、一応健康そうではあった。一体、こいつに何があったんだ?
俺はしげしげと女を観察する。
ぐっと下がった眉。きゅっと噛んだまま震えた唇。上気した頬。うっすら滲むことで、妙に光って揺れる瞳。
この女と出会ってもう三週間になるが、初めて見る表情。俺は好奇心に任せて、精一杯身を乗り出し女を熟視する。
彼女の結ばれた唇がおずおずと開いて、酷く上擦った短い音が漏れた。
俺は唐突に理解してしまう。なんと可愛らしい。……この女は、恥じらっていたのだった。
END